第六章・後編

印画紙もキャンバスに ワイプアートの開発(後編)

休職宣言しての研究は、貯えも底を付いた頃やっと目鼻がついてきた。作品見本を持って印画紙の耐用年数、酸性インクのことで、まだいろいろのことを教えて頂くことが山積みしていた。図書館等で調べても限界があり、直接企業訪問を試みた。
十数社の企業の訪問だったがどこの企業も親切に応対して頂きとても感謝している。特にマービーマーカー社は酸性染料に付いてとても親切に御指導していただいたお陰で研究もより確かなものに進んでいった。しかし、一番驚いたのは三菱製紙株式会社を訪問した時であった。
私と同じ研究をしていたので驚いたが、何より一番の驚きは染料インクのことであった。私が今使っている染料と違い固着性の強い、発色の優れたインクであった。私はモニター的な役割で協力していた。そのような関係から印画紙や現像液等長期に渡って援助してもらった。お陰でやっと研究もまとまった。
その技法で出来上がった作品をマッキャン・エリクソンの方に見せたら「清藤さん、この技法に名前を付けた方が良いよ」と云われ「それもそうだな」と軽く応え、インクを洗い流し、拭き取りながら着色していく過程から「ワイプアート」と名付けた。

「ワイプアート」が出来上がってみると、昔、油絵をやっていた頃のことを思い出していた。

その当時、城をテーマにして地方の城下町を駆け巡りわびの世界を取り入れようとのねらいからキャンバスに油絵の具で描いた後、油絵の具をバーナーで焼き気泡が生じた後、雑巾やたわしでその気泡を擦り落とすことでざらざらした感触と渋いマティエールが出来上がりそれが城のテーマと良く合い一つの世界を構築していた。
これら一連の作品は日本橋丸善で開催したグループ展で初めて出品したものだった。その2年後、ある画家が私がすでに発表した技法と同じ技法を(株)美術出版社で出している月刊誌「美術手帳」に発表していたのを思い出し、ワイプアートは早めに発表する事にした。

玄光社から出ている月刊誌「illustration」誌に1986年6月号に掲載して頂いた。翌年、三菱製紙(株)から「ワイプアート」の本を出す事になった。誌名は「印画紙もキャンバス」。
「ワイプアート」技法も急速に広がりを見せ、デザイン制作会社などではプレゼンテーションなどの他、スクラッチイラストレーターにも利用されていった。しかしこの「ワイプアート」技法の広がりから数年後、コンピュータソフトの進歩から広告代理店、デザイン制作会社などではコンピュータ導入が進み、「ワイプアート」技法も7~8年と短い命で終わった。

日本イラストレーター倶楽部、JICアートスクールを設立する迄の永い年月は私にとって仕事一途だったような気がする。イラストレーションと共に歩いたこの年数を振り返った時、他のことは何も考える余裕がなかったのか、それとも時代を駆け抜ける面白さで無我夢中の時間を過ごしてきたのかも知れない。

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