第二章 前編「マッキャンエリクソン博報堂との出会い」
矢来町へ移転して一年が過ぎた頃、マッキャン・エリクソン博報堂(現在のマッキャン・エリクソン / 本社ニューヨーク)から若いデザイナーが訪ねてきた。用事は「絵を貸して欲しい」とのことだった。
その当時は仕事に追い回され油絵を描くなんて、昔のことのように思い、すっかり忘れていた。というより、すっかり脳裏から消し去っていた時期だった。
そんな私に「絵の見本を貸して欲しい」の一点張りで腰を上げようともせず、いつまでも居座り続け夕日が赤く窓を照らす頃になっても帰ろうとしない若いデザイナーに根負けしてしまった。3日間の時間を貰って見本を描く事になった。
その絵が他の7~8人の絵描きさんの中から選ばれ私に決まった
事を告げられた。その仕事は、三菱自動車のイラストレーションを担当する事だった。なぜ、私を知っていたのか随分後まで疑問を持っていた。
ある日、勇気を出して尋ねてみたら私の展覧会を毎回見に来て
くれる知人の紹介であった。これをきっかけに、イラストレーターへの道を歩む事になるとは夢にも思わなかった。
この時、29才の春だったから日本イラストレーター倶楽部を設立迄の27年間、マッキャン・エリクソンのお世話になるとは想像も出来なかった。
イラストレーションの初めの仕事は、三菱自動車の「コルト」「デボネア」と云っても、今の人には分からない人が多いかも知れないが、当時はチルトハンドルといって体型に合わせることのできる可動式のハンドルで非常に話題になった車種であった。イラストレーションの表現にはチルトハンドルの特徴と分かりやすさを出すためにエアーブラシを使い、ハンドルを重ねた時間差表現で制作した。その結果、ダッシュボード等の作品も合わせて随分注目を集める事になった。
お陰で一年~二年後だったと思う。(株)広告代理店電通から私を紹介する記事も出て、出版社などからも声が掛かるようになってきた。
矢来町時代最も充実していた頃、建設会社の社長が事務所に尋ねてきた。社長の用件とは、赤坂離宮を改装・復元する工事を私どもの会社が引き受ける事になったが、明治時代の代表的洋風建築を改装する前に「その当時そのままの姿を是非、絵に残して置きたいと思う」「如何でしょう、この仕事引き受けて貰えないだろうか?」というものだった。